木村 芳勝
(元島民)

歯舞群島 志発島はぼまいぐんとう しぼつとう
相泊あいどまり
昭和9年生まれ
 私は、志発島の相泊という場所で生まれました。終戦時は12歳で、国民小学校の5年生でした。終戦から昭和23年9月までロシア人と島で暮らしておりましたが、強制引き揚げで樺太を経由し、2ヶ月かけて根室に帰り、現在に至っております。 昭和20年8月15日、私の家に兵隊さんが4人来ました。何でも9時から重大な放送があると言うことで、父も一緒に聞くと言うので私も黙って離れて見ていました。放送が始まると間もなく、兵隊さん達が地面を叩きながら泣き出しました。後で父に聞いてみると、日本が戦争に負けたと教えてくれました。それが終戦の日です。
 その後、樺太から進撃したソ連軍が9月5日までに北方領土の全てを占領しました。 占領下に置かれる事になった日本人島民は、恐怖や将来への不安から、危険を冒して自力で島を脱出する者も少なくありませんでした。各方面の島々の人達が、根室を目指して闇夜に島を出るのですが、船に人が乗り過ぎて、根室に到着出来ずに沈没したということがあったと父から聞いたことがあります。 戦前の島の海はとても綺麗で、沢山の魚や海草が採れました。帆立、サケ、蟹等の缶詰工場は3軒あり、沢山の女工さん達が全国から出稼ぎに来ていました。その中でも島の殆どの家は昆布を採って生活をしており、10月中旬を過ぎますと昆布切りに忙しい毎日で、一家総出で作業を行いました。
 島には電気が無く、一般家庭では水も井戸からツルベで汲み上げており、それがとても大変でした。又、照明はランプを使っていました。 島での遊びは、夏は川や海で泳いだり、釣りをしたりしました。冬になると竹スキーやソリ滑りをしたり、流氷に乗ったりしましたが、潮の流れが変わると氷が沖に出ることがありましたので、気をつけて遊びました。学校に行っている間に雪が降って家に帰れなくなることもありましたが、その時は途中の家に泊めてもらいました。翌日家に帰り母に報告をすると、当時は電話もなかったのに、母はちゃんと知っていましたからそれが大変不思議でした。きっと親同士で「何かあった時はよろしく。」と約束をしていたのだと思います。そのお陰で、島の子供達は怪我も病気もあまりなく元気にすくすくと育ったのだと、今になれば分かるような気がします。そのうち春が来ますと、所々に出来た氷の隙間に手を入れてゴッコという魚を捕りました。そして吸い物にしてよく食べました。小学校の運動会は大人も入って島を挙げての行事となりました。また、神社のお祭りになりますと、日魯缶詰所の女工さん達が出歩いたり、夜店も出店され、大相撲大会や獅子舞踊り等でそれは大変な賑わいでした。神社の入り口には2匹の狛犬さんがいつも見守ってくれていました