高橋 孝志
(元島民)

歯舞群島 勇留島はぼまいぐんとう ゆりとう
トコマとこま
昭和8年生まれ
 私の生まれ育った島は北方領土の歯舞群島の勇留島です。
 自然に恵まれた美しい島で、500人程の島民が家族同様の付き合いをしていて、楽しく活気ある島でした。そこでの14年間は忘れがたいものであり、特に記憶に残っているのは、昭和20年9月2日に突然ソ連軍が侵攻してきたときのことです。銃を肩に土足で家に入って来た時の恐怖は忘れようがありません。島民は恐怖と不安にかられ騒然となり、ソ連兵の目を盗み脱出した引き揚げ者も多く、エンジンもない小舟で島を離れる者もおりました。
 昭和21年4月上旬にソ連の沿岸警備隊40名が島の学校に駐屯する事となり、11家族50名程の者が税庫前に居住することとなりました。その時点より根室との連絡は途絶え、ロシアの実行支配の下での共住生活が始まりました。最初は恐怖と不安でいっぱいでしたが、2~3ヶ月経つ頃には恐怖感も薄らぎ、ロシア兵とも友達付き合いになり、自由な行動も出来るようになりました。しかし、1年半が過ぎた昭和22年8月下旬に、隊長から突然「本土へ引き揚げることになったが、このまま残って居ても良い。相談して返事を」と言われたので全員が引き揚げることを申し出ると、10日以内に志発島に集結するように命令されました。荷物をまとめ家財の多くを置いて涙ながらに故郷の島を離れ、志発島西前にある小学校で、自給自足の生活をしながら引揚船を待っていました。
 引揚船が来たのは収容所に入ってから40日後のことでした。相泊桟橋から漁船で引揚船まで送られたのですが、引揚船は大きくてデッキまで上がることが出来ず、人間も荷物と一緖に釣り上げられて船倉に入れられました。船には他の島の島民も乗っていましたので、千人以上は居たようでした。全員乗船するのに真夜中まで掛かりましたが、明日は根室に行けるものと思い寝ました。しかし、次の日に樺太に行く様だと知らされ不安のまま船内で過ごしましたが、船内では余分な食べ物がなかったので、寒さと時化のために体力は奪われ、病人や死人も出てしまいました。上陸してからは高台にある小学校と女子中学校に収容されました。教室は木製の二段ベッドが置かれていて、その中で収容された者同士が助け合いながらの収容所生活となりました。そこでの約2ヶ月間は、暖房の無い厳寒の中での生活で、この間の苦渋な思いは涙が出て語り尽くせません。根室に着いてから私達家族は借家を見つけて裸一貫の状態から家族で協力して苦難の道を越え、いつかは故郷の島へ帰るのだという希望を胸に頑張ってきました。あれから60幾年が過ぎた今、まだ目の前に見える故郷に自由に行く事の出来ない重みを全国民に感じて欲しいと思います。島が返る日まで返還の灯りを消すことないよう頑張る決意であります。