櫻井 和子
(元島民)

択捉島 留別村えとろふとう るべつむら
年萌としもえ
昭和6年生まれ
 私は、北方四島の択捉島(年萌)
で生まれました。四島の中で一番大
きな島です。
 当時は、昆布や海苔などで生活し
ていけるのだと子供ながらに思って
おりました。小学校は、1年生から
6年生までの44人で、教室は一つ
で校長先生が一人で、忙しい校長先
生でした。
 北方領土は日本固有の領土です。
固有というのは、古くから日本人が
生活をしており、戦争などで奪った
領土ではないという意味です。北方
領土は祖先が厳しい環境の中で苦労
を重ね開拓をしてきた土地なのです。
 島には、捕鯨場がありました。捕
鯨船は鯨を捕ってくると、長い汽笛
を3回鳴らし港に入ってくるのです。
村の人たちは一斉に港に走って鯨の
陸揚げを見にいきます。解剖をする
人たちは、薙刀のように長い柄50
センチ位の大きな刃をつけたもので
解剖を始め、見に来ている人に「こ
れ持って行って、食べろ」と言って
20センチ四方位の大きさの「すの
こ」という霜降り肉を皆に分けてく
れました。また、隣村の運動会に、
皆お弁当を持ってリュックサックを
背負って14キロの道のりを3時間
位かけて歩きました。帰りも歩きな
のですが、途中熊が出ますので、父
親達は馬に乗って何回も往復して、
熊よけのラッパを吹いて守ってくれ
ました。


 昭和16年12月に日本は世界を
相手に戦争に突入しました。これが
太平洋戦争の始まりです。その約1
ヶ月前の出来事ですが。朝起きたと
き私の家の前の単冠湾(ヒトカップ
ワン)に、約40隻の軍艦が集結し
て居たので、びっくりしました。軍
艦の後方で若い海軍さんはセーラー
服姿で帽子のリボンを風に靡かせて
手旗信号を送っておりました。夜は
サーチライトで青白い光を軍艦から
空に向かって放され、その光が交差
して、まるで不夜城の様な感じでし
た。私はランプの灯りしか知らない
ので驚いて眺めていました。出港が
夜中だったのか朝、軍艦は一隻も居
なくなりました。後で聞くところに
よるとここから真珠湾に向かったそ
うです。
 終戦から半月後には北方領土の島
々はソ連に占領されてしまいました。
ソ連兵は土足で家に入ってきて、皆
自分の家から追い出されて、物置の
ようなところに入れられて約2年間
苦労しました。私は、たまたま函館
の方に出ていましたけれど、明治2
9年に、祖父が島の警備のために島
に渡って50年間心血を注ぎ、開拓
してきた土地なので、どんなにか無
念だったと思います。そしてリュッ
クサック一つでどこに連れて行かれ
るかわからないまま引き揚げが始ま
りました。強制送還後、私の家族は、
祖父母をはじめ両親、兄弟と一緒に
なることが出来ました。
 元島民の平均年齢は78歳を超え
ており、領土返還運動を2世、3世
の後継者の皆さんとともに、残り少
ない人生を命を懸けて領土が還って
来るまで頑張りたいと思います。