小田島 梶子
(元島民)

色丹島 色丹村しこたんとう しこたんむら
斜古丹しゃこたん
昭和6年生まれ
 私は、北方四島の色丹島で生まれました。色丹島は四島の中で一番小さい島かもしれませんが、すごく美しい島で、海の幸や山の幸も沢山ありました。私は小学校4、5年生位の時、山や海を駆け巡って遊んでいました。
 私は、よく岬のところを通って一人で海に行きました。潮が引いていくと石の下にはバフンウニや魚がおり、それを捕ってきて一人で食べていました。
 私の家は漁師だったので、船で魚やホタテを捕ってきて加工し食糧などにしていました。
 私の故郷は、いまはロシア人が住んでいます。昭和20年8月15日、大東亜戦争で日本が負けた時、私は14歳でした。私は学校の教室で勉強の準備をしており、先生が黒板に授業の内容を書いて「皆さん授業始めましょう」と言ったところでした。いきなり教室のドアがガラガラと開き、そして見たこともない外国人たちが4、5人が入ってきました。ソ連兵でした。マントを羽織って、ピストルを持っていました。その時教室の皆は一斉に何が起きたんだろうと思って先生の顔を見ると、先生は目を見開いた後、視線を落としたんです。その時ピストルで撃たれるんじゃないかと思い生きた心地がしませんでした。
 当時は紀元節や天長節などいう旗日(現在の祝日)があり、終戦を迎え、学校にあがってから私は、日の丸の旗を掲げる役目をしておりました。ソ連軍が島に上陸してきたので、その国旗は大事にタンスに入れていました。
 私の父は軍人としてアナマの軍におりましたが、終戦になったので除隊手続きをして家に帰っておりました。その後、何日か経つとソ連兵2人が来て「あなたは嘘をつきましたね」と言い、その兵隊に父が連れていかれました。その前に家の中を家宅捜索みたいなことをされ、その時タンスにたたんで入れてあった日の丸の国旗が見つかってしまい、分からないロシア語で何か喋っていました。その後その国旗を広げて、引き裂いてしまいました。自分が大事にしていた日の丸の旗だったので、私が前へ出ようとすると母が横からきてグッと引っ張って止めてくれました。その時母が止めてくれなかったらきっと兵隊に噛み付いたかもしれません。そうしてピストルで撃たれていたら、私は、この世にいなかったのだと思います。
 私が生きている内に島を返してもらい、そうして両親に島を返してもらったと報告ができれば最高です。
 元島民も高齢になりました。後継者の力を借り、一生懸命返還運動をしていきたいと思います。