高塚 正勝
(元島民)

歯舞群島 水晶島えはぼまいぐんとう すいしょうとう秋味場あきあじば
昭和11年生まれ
 私の住んでいたところは、歯舞群
島の水晶島です。
 島には終戦前177世帯があり、
約1,000人ほどの日本人が住ん
でいました。
 島は風が強く植物などが中々育た
ない環境であり、主に高山系の植物
しか育ちませんでした。気候はそれ
ほど寒くはなく、気温は夏で25度、
冬は寒い日でマイナス7度くらいで、
雪はあまり多くありませんが、風は
強いので良く吹きだまりが出来てい
ました。島に住んでいた人々は昆布、
海苔などを採って生計を立てていま
した。昆布は採って砂浜で干し、製
品などにしていました。秋になると
川にサケが遡上し、当時は棒で叩い
てサケを捕っていました。それくら
い沢山のサケが遡上していました。
春先になると富山県や新潟県から昆
布採りの手伝いに出稼ぎ者が沢山来
ておりましたが、出稼ぎ者の中で島
に残り、独立して昆布の仕事をして
いる人がいて、島の世帯数が徐々に
増えました。
 島には病院などはなく、また、官
庁関係は、郵便局、警察、水産関係
の試験場などの他にお寺が1箇所、
学校は本校と分校がありました。
 魚は捕ったら乾燥するか、塩漬け
にして保存し、冬期間の食糧として
蓄えていました。お米は俵で根室よ
り半年分位を一度に買っていました。
また、電気は無かったのでランプの
灯りで生活し、缶詰工場は発電機を
使っていました。娯楽と言えば島を
挙げての運動会で、皆ご馳走を持ち
寄り参加していました。祭りも行わ
れていました。野菜も作れましたが、
トマトなどの実のなる野菜は出来ま
せんでしたが大根、白菜などの野菜
は島でも作られていました。

 昭和20年9月3日、ソ連兵が水
晶島を占拠し、兵隊が2人で銃を持
って警備に入ってきました。言葉が
分からないので何を話しているか分
からない恐怖感があり、大変でした。
私の家は軍の隊長の宿舎になったた
め、隣の空き家に引っ越しました。
 当時学生以外の働ける人は軍の命
令で、父も志発島の缶詰工場に出稼
ぎに行って、祖母と母の7人暮らし
の生活が始まりました。終戦から強
制送還までの2年間で一番困った事
は食糧難でした。ソ連軍の小麦粉を
配給して頂き、米の変わりにパンを
食べて1年間くらい暮らしました。
そこでの生活はこれといった戸惑い
はなく、島の人達には悪い印象はな
かった事と思います。9月下旬引き
揚げ命令によって、水晶島から志発
島へ移動し、家財道具も持たず着た
きりで2ケ月滞在しました。10月
下旬ソ連船に、各家庭ごとに縄網で
乗せられ、網の目から足が出そうで、
恐ろしい思いをしながら、船底に入
れられました。どこに行くのか聞い
たところ、樺太の真岡港でした。街
の高台にある女子中学校が引き揚げ
者の収容場所で、着いた時は街の中
は雪で真っ白でした。収容場所では
満足な食事も取れず、パンと牛乳が
1日2回しか出ず栄養失調となり、
風呂にも入れず、大変な思いをしま
した。11月下旬本国より迎えの船
が来た時は、本当に安堵いたしまし
た。今後は若い人たちに北方領土の
返還運動を引き継いでもらいたいと
思います。