河田 弘登志
(元島民)

歯舞群島 多楽島えはぼまいぐんとう たらくとう
カンバライソ
昭和9年生まれ
 現在は、末だ返らぬ故郷の島々が間近に見える根室市に住んでいます。
 歯舞群島は水晶島、秋勇留島、勇留島、志発島、多楽島の5島で面積100㎢に5、281人が住んでいました。
 私が生まれた多楽島は歯舞群島の最東端で納沙布から約45㎞離れたところで面積12㎢の小さな島でしたが、人口は1,457人で私が5年生まで通っていた国民学校の生徒も約239人と北方領土にあった学校39校中一番多く、人口密度も一番高い島でした。
 島の中心地古別には、学校やお寺や郵便局、無線局、巡査駐在所、あるいは水産検査派出所、駅逓、診療所等の公共施設が集中しておりました。北方領土は、私たちの祖先が3代5代に亘って正に血と汗、涙を流して開拓した地であり、私の祖父も明治の時代に両親は大正の初期から多楽島に定住し、私も11歳まで住んでいました。
 島の周辺は昆布の宝庫で、昆布採取が盛んで漁期になると一家総出で働きました。島を挙げての運動会やお祭り、青年団の演芸会などは最高の楽しみで、潮引きに家からざるを持ち出しエビやカジカなどを掬って遊んだことも懐かしい思い出です。
 昭和20年8月15日の敗戦というショックから何とか立ち上がろうとしていた矢先の8月28日から9月5日の間に、北方領土はソ連軍に不法占拠されました。新築したばかりの我が家にも二人のソ連兵が土足で上がり込んできて、銃を突きつけアメリカ人はいないか、兵隊を匿っていないか、銃を隠していないかなどと言いながら天井を突いたりして家捜ししました。私たち兄弟5人は、親の背に隠れるようにして恐る恐る見ておりましが、引き出しから剃刀やバリカンを持っていきました。若い女性などは、何をされるか分からないということで変装して納屋や物置とか押入れの中などに隠しました。 9月といえば漁期の真っ最中で、私も父と夜いか釣りに出て発砲されたことがあります。本土との通信も途絶え島民は次第に不安と恐怖が募り、止むなく夜陰に乗じて小舟で一時避難的に脱出するようになりました。
 しかし未だに着いていない人が沢山おります。
 私は弟と二人学校に行くために親兄弟と別れて島を出ましが、残った親達もそれから2年後に約3ヶ月かけて着のみ着のままの姿で樺太経由で強制送還されました。途中多くの老人や幼児が犠牲になったと言われていました。
 皆さん東日本大震災をご存じと思います。私たちもあの様な体験をしたからとても他人事とは思えません。物置や馬小屋、土間に莚を敷いて冬になると回りから凍ってくるような所で何年も生活していました。今も一日も早い返還実現を念じながら運動を続けています。