野口 繁正
(元島民)

国後島 泊村くなしりとう とまりむら
苅秩別ちぶかりべつ
昭和17年生まれ
 私は第2次世界大戦が始った翌年の昭和17年6月に、北方領土の二番目に大きな国後島で生まれました。生まれたところは知床半島の対岸で、現在の羅臼港まで24キロの泊村字秩苅(ちぶかり)(べつ)という小さな集落です。夏はほとんどの人が漁業をし、冬は流氷が知床半島まで繋がってしまい出来ないため、山豊富に繁っている木材を切り出したり、火薬の原料となる酸黄の採掘鉱山で作業をし暮らしていました
 夏は前浜でいろいろな魚がたくさん獲れ、畑では一年分の野菜も採れて、みんな仲良く裕福な生活をしていました。一年間の大きな収入は、春からのナマコ漁で捕ってきたナマコを大きな窯でゆで上げて天日で乾燥させた物をカマス(ムシロを折り、フチをワラ縄で止めたもの)に8個できると、
年間の生活が出来ると言われていました。
 12月中旬から、5月上旬まで、流氷のため食料品は届かず、5ヵ月分の食料品を買って蓄えたのです。
 そんなある日、昭和20年10月2日だったそうですが、突然、ソ連兵が現れ土足で家中を歩き回り、腕時計と万年筆を探していたそうです。その時にソ連兵に抱かれ、怖くて泣いていたのを覚えています。
 それからは毎日、馬に乗って見回りに来るようになりました。村の人々は夜中に北海道本島へどんどん脱出をして行きました。
 集落には根室の業者の大きな木工場があり、製材が山のように積んでありましたが、その製材が根室空襲で市街地が大火になり、木材が必要になり、10月21日の大嵐の夜に、集落に残っていた7戸の全員を載せてもらう条件で貨物船に製材積み込みを手伝い、一人風呂敷包み一個を持って脱出しました。
 途中で大嵐のためエンジンが故障し、命からがら羅臼に上陸しましたが、その後の生活は大変で、川の魚をたくさん取り、海水で塩を作り、山菜類などで命をつなぎました。その後父が開拓農協を設立し、知床の原始林を切り開き、70年暮らしてきました。
 昭和58年から、北方領土返還要求運動を始め、平成15年に初めて、自分の生まれた国後島の秩苅別へ行きましたが、住宅の後もなく、海岸も大幅に侵食され、当時の面影は何も確認できませんでした。
 その後も時々渡航していますが、年々島はロシア化され、街並みも変わっています。出来るものなら今のまま緑の濃い山々と、多量に噴き出す温泉、動植物の多い島であってほしいと思います。
 昨年12月にロシア大統領と安倍総理の会談に期待をしましたが、経済関係の話で終わり、島返還の話はまるで出ませんでした。我々元島民は、あと20年過ぎると誰も今世にはいなくなります。せめて生きているうちに返還の目処がついてくれればいいと思います。