三上 洋一
(元島民)

択捉島えとろふとう留別るべつ
昭和12年生まれ
 私の故郷択捉島は、鳥取県と同じくらいの
大きさの島で、山、川、湖沼、湿原が多く、
海産資源が豊富な日本有数の漁業地でした。
暖流と寒流がぶつかる海域のため、ガスと呼
ばれる濃霧が多く発生し、しばしば海難事故
の原因となりました。
 昭和20年8月28日、留別村一帯は濃い霧に
包まれていました。午前10時過ぎ、ソ連軍約
500人が霧に乗じて上陸し、村を包囲しまし
た。一隊は、村を見下ろす「風見の山」に陣
取りました。次いで、橋を渡って村に入り、
まず郵便局を襲いました。局員は村役場にソ
連軍の侵攻を伝え、村人に戸締まりを促して
歩きました。留別村の周りには歩哨線が張ら
れ、ソ連兵は丘の上から双眼鏡で村の様子を
監視しました。若い女性は難を逃れるため、
髪を切り男装しました。
 9月末頃からソ連兵が増え、一緒に民間人
も多数移住してきました。初め日本人は無償
で強制労働させられましたが、12月から民警
所によって職を決められ、給料も払われるよ
うになり、小麦粉の配給もありました。
 1947年夏、「日本人は帰れ、島にいたかっ
たらソ連人になれ」と言われました。強制移
送の船が到着まで10日ほどあったので、干飯
を作り塩と一緒に袋に詰め救急食にしました。
寝具と少しの着替え以外は持つ事を許されま
せんでした。
 艀から強制移送の貨物船へは、袋に入れら
れウインチで持ち上げられ船底へ降ろされま
した。その夜、私達は甲板に群がるように立
っていました。見送りのソ連人達が闇の中に
燃やす焚き火だけが目印でした。やがて船は
動き始めました。
 翌日、船は内保に寄り国後島の沖を通り北
に進みました。根室に向かっていない事だけ
は確かでした。3日後、船は樺太の真岡に着
きました。私達は丘の中腹にある収容所に入
れられ、空腹と寒さの日々を送りました。
 2週間ほど経って厳しい検査を受け、身に
つけていた金品を公然と半ば事務的に略奪さ
れた後、第2収容所で船待ちをしました。数
日して、船尾に日章旗を掲げた迎えの船が来
ました。父が、「あれが函館山だぞ」と指差
して、函館港に入っていったことを今も忘れ
ません。