大塚 誠之助
(元島民)

国後島くなしりとうウエンナイ
昭和10年生まれ
 私は、10歳まで国後島泊村のウエンナイで
生活しました。ウエンナイは、泊市街から2km
程東寄りの部落で、戸数は80戸余り、400人
近い人が生活していました。主にタラバ蟹、
ホタテ貝、北海シマエビ、カレイ、伊谷草で
生活を立て、特に寒天の原料となる伊谷草の
採取権を持った漁民は、それだけで今のお金
に換算すると年間100万円近い収入があった
そうです。
 島での生活は、12月から3月にかけて、湾
内の氷結と流氷で根室港との船便は閉ざされ、
照明も年間を通して石油ランプという不便さ
でしたが、都会の生活を知らない子供にとっ
ては、つるつるに氷結した湾内を手製のそり
でむしろを帆にして走ったり、小川を溯上す
るさけ・ますや遠浅の海でかれいを手製のや
すで仕留めたりと自然に恵まれた楽園でした。
 しかし、1945年8月末、択捉島を始めに、
ソ連兵が侵入してきました。9月5日頃、馬に
乗った一人のソ連の将校がウエンナイに現れ、
私の父に向かい自分のズボンの赤いラインを
指して、屋根の上に「赤旗」を掲げるよう指
示しました。父はロシア語を全く知りません
が、仕草から判断し、缶詰工場で使用して
いた労使協調という文字入りの赤旗を屋根の
上に掲げると、将校は満足げに帰って行きま
した。
 このようにウエンナイではソ連兵との出会
いは平穏でしたが、私たちが島から脱出した
後、泊の前村長さんが自宅に押し入ったソ連
兵を阻止しようとして、マンドリン銃で撃た
れて死亡するという事件もありました。
 私の家族は、父を残し9月10日頃に近所の
漁師さんの船で着の身着のままで暗闇の中脱
出し、風蓮湖の走古丹(はしりこたん)で生活
を始め、父も10月には脱出して来ました。生
活の基盤を全く失っており、両親の苦労は大
変なものでした。
 脱出できず島に残った方は想像を絶する苦
難の末、昭和22~23年にかけて強制送還で樺
太の真岡経由で函館に引揚げてきました。
 戦後、苦難の道を歩みながら返還運動の先
頭に立って活動してきた元島民も、他界され
た方が多く高齢化しています。私たちの願い
は、元島民が一人でも多く健在のうちに北方
四島が返還され、自分の故郷に自由に往来で
きる事です。私達現島民は、体力の続く限り
悲願達成に向けて頑張りたいと思います。