鈴木 咲子
(元島民)

択捉島えとろふとう蘂取しべとろ
昭和13年生まれ
 私の生地は択捉島の蘂取村です。
 戦争が終ってから13日経った8月28日に留
別村のオホーツク海側の港にソ連軍の軍艦が
突然入って来ました。そして北方四島は9月5
日までに全て占領されてしまいました。
 蘂取村にも様々な噂が流れ、何をされるか
分らないという恐怖心がどんどん募っていき
ました。
 ある日、ソ連の兵隊が、黒光りした銃剣を
片手に私たちの家に土足で入ってきました。
指輪等貴重品を持ち去っていったのですが、
帰るまでは体が震える程怖かったです。
 島の官庁は全て閉鎖され、13歳以上の日本
人は漁船に乗り、朝早くから夜遅くまで、強
制労働が続きました。学校の勉強は歴史、道
徳、地理等は禁止になり、ソ連から来た民間
人も、日本人の家を仕切って暮らし始めまし
た。
 日本人の火葬場の炉を壊し、そのレンガを
持ち出して村の食堂にパン窯を造ったという
出来事は、私の中で未だに嫌な思い出となっ
ている一つです。また、謂れない罪を着せら
れシベリアに送られた村の人もおりました。
 自由を全て奪われた生活を送る中、島を出

て行くよう命令が出され、昭和23年10月20日
頃、島を追われました。身の回りの物だけを
持ち、貨物船に乗せられ、樺太は真岡の収容
所に入れられました。お年寄りや子供が栄養
失調になり、歩くこともできないという劣悪
な環境でした。
 函館から日本の船が迎えに来た時、亡くな
った人は乗船が許可されず、亡くなった赤ち
ゃんを生きているかのようにおんぶして連れ
てきたお母さんもいました。
 土地や財産を奪われ、島を追われた元島民
は、引揚げ後も大変惨めな生活をしなければ
なりませんでした。
 長い年月が流れ、平成2年に戦後初めて択
捉島の墓参が許され、参加しました。
 学校の門だけが村があった証のように残り、
両親のお墓がどこにあるのかも分らず、あま
りの衝撃に涙も出ませんでした。島の美しい
風景だけが癒してくれました。
 私たち日本人は、ロシアに四つの島が奪わ
れ不法に占領されている事を決して忘れては
なりません。私も、体力の続く限り、北方領
土返還要求運動を頑張って参りたいと思いま
す。