高岡 唯一

(元島民)

多楽島たらくとう
(カンパライソ)
昭和10年生まれ
 1935年生まれです。終戦(1945年)時を回
想する時は「古里」という叙情歌を歌います。
「うさぎ追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川、
夢はいつも巡りて忘れがたき古里、思い出ず
る古里」。そうすると10歳の少年になれるの
です。
 私は多楽島の生まれであります。歯舞群島
は5つの島があり、その中の一つが多楽島で、
面積は20k㎡、1945年当時は約230戸、1300人
が住んでおりました。
 家業は昆布の採集生産をしていて、来る日
も来る日も親の手伝いをしておりました。現
在のように、物が豊富ではありませんでした
から、隣近所の交流が強く、助け合いが大人
も子供も身についておりました。
 子供の仕事は、雑昆布や波打ち際に上がっ
た昆布を干すこと、そしてそれらの昆布を焼
く間の火の番をすることでした。焼いて灰に
なった昆布を袋詰めにして工場に持込みます
と、精製されヨードとカリに分類されまして、
ヨードは薬品原料、カリは火薬源になるのだ
そうで、子供ながらに国の為の仕事をさせら
れました。また、各戸には馬が1・2頭はいま
したので馬の世話をする事も子供の仕事でし
た。馬は遠くへ行くときは乗馬とし、また昆
布を運ぶときは馬車として、現在の車の役割
をしていました。
 学校は4キロ位遠くにあり、砂浜の道を歩
くので身体は強健でした。
 昭和20年7月15日、根室方向の空に黒煙が
もくもく上がっているのが島から見えました。
島の人々は、根室がアメリカ軍の空爆を受け
ていると感知したそうで、島にも空爆がある
のではとの不安が広がり、毎日生活が混乱し
たそうです。
 役場が歯舞村(今の納沙布岬の地)にあり
ましたが、何の連絡・指示もないまま不安の
日々を過ごして1か月が経ち、8月15日に第二
次世界大戦の無条件降伏のラジオ放送があり
ました。島民の落胆は大きく、生活の更なる
不安を強くしたそうです。
 8月末、ソ連兵が択捉島から次々と上陸を
始めたと連絡があり、9月5日、ついに多楽島
にも上陸しました。親しい大人たちは、米英
連合軍と戦争してる認識でしたので、ソ連軍
が上陸してくることに合点がいかなかったそ
うです。
 日本軍人より身体が大きく、怖い顔で鉄砲
を持って大声を出して、土足で家の中を歩き
回るソ連兵の行動が、脳裏に焼付いており、
70年の人生で一番の屈辱でした。その数日後、
一家全員で自家用動力船を使って島から逃げ
出したのです。
 私たちが、1945年前後の体験を語らなけれ
ば、当時の痛々しくも悲しい状況が風化され
てしまいます。
 一年の節目々々に生れ育った故郷への里帰
りは日本人の大切な生活文化です。
 私たち元島民は、日本人の心の文化生活を
ロシアの不法占拠に依り阻害されたのです。
人道的な立場からも今後途絶えることのなく、
ビザなし、墓参、自由訪問の交流を続けて、
ロシアの現島民に理解を得ることを二世三世
の後継者に託したいのです。