得能 宏
(元島民)

色丹島しこたんとう斜古丹しゃこたん
昭和9年生まれ
 私の生まれた色丹島は、美しい山々があり、
多くの高山植物が村人たちの心を憩い、海

には天然の良湾・入江を有し、海には豊かな
魚介資源がある、そんな恵まれた島でした。
 昭和20年9月1日の朝、何の前ぶれもなく、
島の北西側にある斜古丹湾に、不似合いな真
っ黒い軍艦2隻があっと言う間に侵入してき
ました。日本人よりはるかに大きいソ連兵が、
銃剣やライフル銃を構え上陸して来たのです。
その中には民家を襲い、銃剣を突きつけ家の
中を探し、金品を奪ったソ連兵も多くいまし
た。
 この日を境に、島の運命は悲惨な状況へと
転がり落ちて行ったのです。
 やがて、ソ連軍は民家を次々と没収し始め
ました。追い出された人々は、物置や知人の
家に間借りをして生活しました。 
 毎日がソ連軍の監視下にあり、恐ろしくて
外にも出られない日々が続いたため、島を脱
出する人々が増えました。厳しい監視の目を
逃れるために、暗闇や荒れている海を選んで、
エンジン音と灯火を消した小さい持ち船に家
族や知人を乗せ、無謀な、死を覚悟した上で
の脱出でした。
 島に残った島民は、ソ連人と混住生活をす
ることとなりました。言葉には言い表すこと
のできない、先の見えない不安な日々が続き、
苦しいけれど生きるしかない、そんな中昭和
22年の秋、突然ソ連軍から日本人は日本に帰
すとの命令が出ました。1週間以内に船が来
て、荷物は自分で持てるだけ、そして我々島
民は島を追い出されました。
 船内は異臭が酷く、トイレの汚水が流れる
不衛生な船で樺太へと送られました。到着す
ると、真岡の収容所へ入れられました。厳寒
の地で、食糧不足により栄養状態は劣悪でし
た。薬もなく、医者もいない。体を壊し、死
亡する人も多くいました。死と背中合わせの
日々をどうにか乗り切り、その後引き揚げ船
で函館にたどり着くことができました。
 島を追われた元島民は、辛く悲しい事が随
分多くあるのです。思い出すのが辛いのです。
しかし、私は後継者と多くの国民に語り続け
ることが、北方領土問題を風化させないこと
と考えています。